蛍の光は聴こえない プロローグ


 嶋田 拓郎は、呆然と燃えあがるビルを眺めていた。
 手にはしっかりと、つい今しがた買って来たばかりの菓子類が入った、近所のスーパーの袋が握られている。そして、その菓子を、天使のような笑顔で食べてくれるであろう子供達は、彼が見つめているビルの中にまだ居るはずだ。
 体が震えていた。動かなかった。彼の周囲には怒号と騒音が溢れ、逃げ惑う人、見物する人、必死に消火しようと努める人などがうごめいていたが、彼は動けなかった。
(なんてこった、なんてこった、なんてこった……)
 無限の回廊に迷い込んでしまった彼の心には、その言葉だけが延々と響いている。
 無論、彼が心の中で幾ら悲鳴をあげたとしても、火事が彼を不憫に思って消え去ってくれるような事は無く、彼が見上げるビルは、炎のドレスを纏ったまま轟々と悲しげな慟哭をあげ続けるのであった。

 嶋田は67歳。長年勤めていた会社を円満に定年退職すると、しばらく悠々と過ごして生きていた。妻の美津子と二人だけの家庭。子供が出来なかったのが心残りではあったが、この年齢になってはそれを悔いてももう仕方が無い。それに、子供に使う金が要らなかったことと、彼等夫婦が浪費家ではなかった事が幸いして、貯金はそこそこの額になっている。体が動かなくなる時まで遊んでも、底を尽く事は無いだろう。今まで苦労して来た分、遊んで暮らそうじゃないか……美津子とそう話をして、悠々自適の老後を楽しむ事を決めたのだ。
 ……が。
 真面目一辺倒で生きてきた嶋田は、どうやって遊んで良いのか分からなかったのだ。嶋田夫妻はマンションを買ってそこに住んでいるのだが、昨今のマンションの住人どうしと言うのは、他者とのコミュニケーションに欠けている部分があり、彼等には子供も居なかったせいか、夫婦そろって隣の住民の名前もろくに覚えてはいなかった。まぁ、体を動かすのはそう好きなほうではなかったし、ゲートボールに誘われたとしても行きはしなかったであろうが。
 温泉旅行などにも行ってみたが、3回ほど実行した頃には飽きてしまった。実際、どの温泉宿も大して変わり映えはしないものであるから、そこまで温泉に浸かるのが好きでない人間には、暇な温泉宿は逆に苦痛に感じるものなのである。
 そんなある日、夫婦で街に買い物に出掛けていた嶋田は、あるものを発見した。宝くじの発売所である。ものは試しと、その時に販売されていた数種類の宝くじを一通り買ってみた。
 スクラッチのクジは、家に帰ってすぐに全部外れている事が判明した。
 翌々日の朝刊で、一等一千万のクジも外れているのが分かった。
 ナンバーズとか言うのもハズレていた。
 そして……
 ロトクジなるものの発表が朝刊に載っていた。嶋田は見事に、キャリーオーバー込みの最大当選金額四億円を当てていたのだった。

 美津子があまりのショックに倒れて救急車を呼んだり、どこから聞き及んだのか知らないが訳のわからない勧誘やら脅迫やらの電話、手紙が殺到したりと、数週間はドタバタした日々が続いた。
 ようやく落ち着いた時、嶋田は美津子ともう一度相談して、それを決断した。やはり自分には遊びは向いていないのだ。せっかく転がり込んできた金である。自分らしくあるために使おうではないか。
 そして去年、彼等は保育園を開いた。無論、自治体の認可は得られなかったが、儲ける為に開いたわけではないのだ。金銭の援助を受けられなくとも気にはしなかった。年々増加し、当たり前の様にワイドショーで報じられる様になった幼児虐待への怒りもある。最高のスタッフと設備を、利用者に負担を掛けずに提供する為に、もとより赤字で当たり前のつもりだったのだ。
 繁華街の一等地、5階建てビルの4階、ワンフロアで月に400万。20m×20mの空間を借りた。スタッフの面接には細心の注意を払った。虐待の見落としが無いように、天井の各所に監視カメラも取り付けた。スタッフの気分も悪いだろうが、その分給与は他所の数倍を提示している。そのくせ、月謝は認可された保育園よりも少し安いくらいに留めた。受け入れる子供の人数も、30人に限定した。
 5年持てばいい。嶋田はそう思っていた。5年間だけ、子供の居ない寂しさを紛らわすつもりだった。

 果たして、嶋田の保育所は大成功であった。大きな収益をあげたと言う意味ではない。もとより上手く行っても大赤字の計算である。受け入れた子供たちの親達からの評判がすこぶる良い、と言う意味での大成功だ。嶋田自身も、当初の思惑通り、子供たちに囲まれてとても幸せであった。彼の愛情が伝わってくれたのか、子供たちも良く彼を慕っていた。
 そうして、2年の月日はあっという間に流れて行った。

 三年目を迎える嶋田の桃源郷は、しかし今、紅蓮の炎に包まれていた。消防車はまだ来ない。出火原因はビルの1階にある飲食店のガス爆発だ、という事は野次馬の声で理解した。
(そんな事はどうでも良いんだ、彼らは……子供達は無事なのか?)
 先ほどから感じている不安は、ここに戻ってきてから、彼にとっての天使たち――子供達の姿が見えない事にあった。もう一度、辺りを見まわす。が、やはり見当たらない。
(まさか……まさか!まさか!)
 嫌な想像がほぼ完全な現実感となって嶋田を襲う。
「そこのオジさん! ぼっとしてないで手伝ってくれよ、人数が足りねぇんだ!」
 いきなりの声に、嶋田はしばらく自分が呼ばれたのだとは気付かなかった。その声が自分に向けられたものだったのだと気付いて振り向こうとした時、声の主は彼の腕を取っていた。そのまま、バケツリレーの人の列へと引きずって行こうとする。
「まったく、ただじっと見上げてる場合かよ。ほら、こっち来て!」
「ま、待ってくれ、まだ……まだ中に子供たちが……」
 ようやく、嶋田はその事に気付いた。子供たちが中に閉じ込められている事を伝えなければ――助けなければ!
「……なんだって?」
 嶋田の腕を掴んでいた青年――学校の制服姿だから、高校生ぐらいだろうか? 言葉遣いは最近の若者らしいものだが、その表情はずいぶんと大人びている様に見えた。ともすれば、嶋田などよりもずっと長い時を過ごしてきたような――が、怪訝な顔をして見せる。
「だ、だから、子供たちが……きっとまだ4階に残ってるんです! た、助けてあげないと!」
 嶋田の言葉を聞いた青年は、バッと燃えるビルを振り返った。炎はなお勢いを衰えず、今まさに3階を飲み込もうとしていた。4階は、煙で見えなくなりつつある。一刻を争う状態であった。
「っかやろぉ、なんでもっと早く言わねえんだ!」
 激怒の表情で青年が嶋田を罵倒して来た時――野次馬の声が、残酷な知らせを彼等に伝えたのだった。
「消防車が事故った! バイクのも巻き込んじまって、道を塞いじまったってよ!」
 即ちそれは、短時間での消火活動が絶望的になった事と同意であった。嶋田は、全身の力が抜けるという言葉の意味を知った。膝に、地面とぶつかる衝撃が来る。
「ちっ…くしょおぉっ!!」
 青年はそう叫ぶと、嶋田のことには目もくれずに走り出した――炎に向かって。
「お、おいっ!」
 バケツリレーの列の誰かがあげた声には反応すら見せず、水も被らないまま、彼の姿は赤く揺れるビルの中へと消えて行った。
 嶋田は、放心した様に座り込んだまま、それを見つめていた。

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