「な、なぁ……こんなことして本当に大丈夫なのか?」 学達がいる繁華街から、少し入った裏通り沿いの、微妙に寂れた雑居ビル。彼等はそこの2階にいた。 「うるせぇなぁ、上からの御命令なんだよ。俺たちゃ言われたとおりにやってりゃイイの」 答えながら、男はポリタンクの中に入っているガソリンを、床に撒き続けていた。多分、少し前までスナックが経営されていたのであろうこの区画には、その面影であるカウンターやソファ、テーブルなどがそのまま放置されている。狭いテナント用区画は、ガソリンの放つ刺激臭であっという間に満たされて行く。 「で、でもな、お前も見たろ? このビル、ココは潰れちまってるけど、上には人がいるんだぞ?」 「……だから?」 おそらくパートナーであろう男の、うろたえた言動を嘲笑うかのように、薄い笑みを浮かべながら、答える。もちろん、ガソリンを撒く作業は続けたままだ。 「だからって……人が……いるんだぞ?」 信じられないものを見るように、男を眺めて呟く。 「はぁ〜……ったくよ。」 ガソリンを撒き終わった男は、やれやれ、といった風にもう一人を向き直る。そして、説教をするように口を開いた。 「いいか? 俺らの仕事は、上に言われた事を実行に移す事だ。そうだろ?」 「あ……ああ、そりゃそうだが、しかし……」 「しかしもカカシもねぇの。俺らがやる事で、誰かが死んでも、俺らには関係無い事なの。そんでなぁ……」 疲れたように、男は懐から銃を取り出した。 「……え?」 銃を突き付けられ、もう一人の男は目を見開いた。 狭い店内に、銃声が響き渡る。 「これぐらいでおたおたするヤツは、口封じの為にこうされちまうんだよ。良く分かっただろ?」 倒れた男を見下ろしながら、嘆息混じりに呟いた。 「……おっと、まずったな、危うく発火する所だったぜ。じゃあな、相棒。短い間だったがよ」 バタン、と、扉が締まるのとほぼ同時に、店内は真っ赤に染まった。 「出て来ましたね」 双眼鏡を構え、男が雑居ビルから出て行くのを確認して、桜は青山を振り返った。 「あの男で間違い無いのですね?」 「えぇ……しかし、もう一人は出てこないようですね」 男が出てきた七階建ての雑居ビルの屋上である。先ほど、青山の所に桜と佐々木が到着したばかりだ。 「2階のどこかにいるはずです、3号、見て来て下さい」 「は、はいぃ!」 びくっ、と、体を震わせて、バタバタと佐々木が階段のほうへと向かっていく。桜の方はというと、その背を見送ることもなく、また双眼鏡を構えてビルから出ていった男の動きを追っている。 「はぁ……」 (佐々木のやつも、あんな臆病なやつじゃなかったんだがな……) 青山は哀れみを少し込めながら、佐々木の後姿を見ていた。青山と佐々木は、以前に違う仕事でSPとして顔を合わせたことがあった。佐々木は、見た目こそ風采の上がらない中年男だが、その少し太った印象を与える体格でも、青山が感歎するほどの運動能力を持っている男だった。ある大物外国女性芸能人の護衛をしていたとき、物陰からいきなり襲い掛かってきた狂信的なファンの男を、見事な手際で取り押さえていたことを思い出す。 (だからこそ、こういう仕事も回ってきたわけなんだが……) 日本を裏で取り仕切る男の、愛娘の護衛。いつ来日するかわからないような外国人タレントの護衛などより、高い報酬。しかも、辞職しない限りは、定年まで永続的に勤務できるわけである。夢のような話だった。蓋をあけてみれば、それが悪夢であったことが判明したのだが。 「それにしても……あの男、先ほどまでより早足になっているようですわね」 それでも、悪夢を耐えるだけの価値がある報酬は現実なんだよな……そんなことを考えていた青山は、一瞬、桜のその呟きを聞き流しかけた。 「……え?」 なんだか、とてつもない情報を与えられた気がして、訊き返す。そして、桜が口を尖らせながらもう一度同じことを言い終わる前に、青山は蒼白な顔をしながら叫んでいた。 「お嬢様! 早くここから出ましょう!」 きょとん、としている桜(場違いではあるが、こういう表情の桜は本当に可愛い、と、青山は内心思った)の腕を取り、青山が先ほど佐々木が消えていった階段のほうへ走り出したとき、その階段から佐々木が、ものすごい形相で駆け上がってくるのが見えた。 その時、青山は自分の判断が遅すぎた事を悟った。こちらの姿を確認した佐々木が、これから叫んでくる言葉を、青山はすでに理解していた。 「た、大変です、火事です! このビルが燃えてるんです!」 |