もう、その目を開くことのないカリッサを見下ろす。 (・・・・・・) 全ての感情が、アロワードの中で荒れ狂う。 悲しみが、バンシーに取り憑かれるほどに膨れ上がる。 (もう・・・僕は・・・人間にはなれない) 心の嵐の中で、奇妙に冷静なもう一人の自分が、いる。 普通、冒険者の宿というのは、一日中玄関の鍵を閉めることがない。夜中の来客にも対応できるように。 部屋さえ分かれば、女将を起こす必要もなく、アザリーはガルシアの部屋へ向かったのだが、留守だった。 肥大した胸騒ぎを抱えながら、廊下を戻ろうとして・・・アザリーは、ある部屋のドアの鍵が、壊されているのを発見したのだ。 彼女の不安はさらに増大した。 廊下のランタンの薄暗い明かりに照らされたその鍵の壊され方。 以前、ある街の富豪の別荘に住み着いたゴブリンを退治する仕事に、ガルシアと共にパーティーを組んだ時のことを思い出したのだ。 別荘の玄関の鍵は預かっていたのだが、ゴブリンどもは玄関に板を打ち付けてバリケードを築いていた。 裏口の鍵開けを、ガルシアが試み、そして・・・ 今、アザリーが見ているドアの鍵と同じように、シリンダー部分が飛び出した状態で壊れた。 ガルシアの腕が悪かったわけではない、鍵が古くなっていて、引っ張り出したシリンダーが元の位置に戻らなくなってしまったのだ。 まさか、と思い、アザリーはこの部屋に踏み込んだ。 その、開いたドアから、廊下の明かりがぼんやりと部屋に入ってきている。 ガルシアが倒れ、アザリーが今立っている辺りには、その明かりがかろうじて届いているが。 赤と紫の、光る瞳の男の居る所は、こちらからは真っ暗で見えない。ただ、その瞳だけが浮かんで見えた。 その視線が一旦下を向き・・・しかし、アザリーの身体は動かなかった・・・そして、またアザリーを見つめてくる。 この部屋に入るまで、否、入ってからも、感じなかった圧力。 それは、その男が最初に声を発した辺りから、急激に膨れ上がってアザリーを圧倒した。 (怖い・・・怖い・・・) 闇に光る二つの瞳。 左は紫。 右は赤。 目を逸らしたい。でも、逸らせない。 まるで、魅入られたように、その瞳を見つめてしまうのだ。 (堕ちろ・・・って、言ってた・・・) その言葉が意味するものはなんなのだろう。 自分も吸血鬼にされてしまうのだろうか。 恐怖で、身体だけではなく、精神も麻痺しかけたアザリーは、そんなことを思った。 そして、その男が、近づいてきた。 (この女を・・・) 吸血鬼にしてやろうと思った。 だからアロワードは、彼女へと歩み寄った。 苦しめばいい。アロワードから、全てを奪っていった男。その仲間の女。 (・・・・・・) ふと。 歩きながらアロワードは思う。 (堕ちれば・・・理性が消えていく。理性がなくなれば、苦しむこともなくなってしまうのか・・・?) だとすれば。 堕とすわけにはいかない。 人間のまま、苦しんでもらわなければ。 明かりが届く位置まで、男がやってきた。 「お前には・・・苦しんでもらわなければいけない」 その言葉は、アザリーの心に突き刺さった。 (なんで? 何で私が? ガルシアと知り合いって言うだけで・・・?) 恐怖で声が出ない。ただ、涙がでた。 「泣いても・・・許すわけにはいかない・・・」 涙で歪んだアザリーの視界に、男の顔が映った。 秀麗な顔立ちの男。その美貌に、世界の全てを憎むほどの憎悪。 「泣くくらいなら・・・何故、僕からカリッサを奪った・・・許すわけにはいかないんだ・・・」 憎悪。 「この目が欲しかったのか?・・・ならば、お前も、魔眼の持ち主にしてやろうか?」 憎悪。 アザリーは叫びたかった。自分は違うのだと。自分は、ガルシアの愚行を止めたかったのだと。 だが、首を振ることすら出来ない。 足には全く力が入らないほどの恐怖が全身を覆っているのに、その場にくず折れることも出来ない。 「・・・安心しろ・・・お前を吸血鬼にしたりはしない・・・だが」 これほど、何かを憎めるのだろうか。 冷気を感じるほどの声音で、男は、言った。 「その男は、命を失った。カリッサも・・・僕は全てを失った・・・お前の全てを、僕は奪う」 本当は、殺してやりたかった。 だが、すぐ近くで死んでいる男・・・カリッサの命を奪った、忌むべき男は、もう苦しむことはない。 今、目の前で震えて泣いている女。この魔術師を殺しても、アロワードの怒りは消えない。 苦しめて、苦しめて、苦しめて・・・ そう思うことで、またさらに憎悪が膨れ上がってくる気分になる。 (くそっ・・・!!) アロワードは後ろへ振り返った。 今は、カリッサを、安らかに眠れる場所へ、移してあげたかった。 カリッサの元へ戻り、彼女を抱きかかえる。 もう、ほとんどぬくもりは残っていなかった。 「・・・来い」 一言、振り返りもせずに告げる。 ふらふらと、女が近づいてくる気配があった。 「背中につかまれ」 もう一度告げると、女が腰に手をまわし、掴まった。 「・・・絶対、離すなよ」 そう言うと、アロワードは、カリッサを抱えなおし、部屋の窓へ向かった。街道とは逆側を向いていて、人目はない。アロワードも、抱えているカリッサも全裸だが、構わなかった。ただ、魂を失った彼女を、誰かに見られるのも、誰かの手で彼女を葬らせるのも、耐えられなかった。荷物は全部置いていく。宿代も、あの女将なら、そこから勝手に取るだろう。冒険者の宿だ。死んだ利用客の荷物は、宿の財政を支える重要な収入源であることをアロワードは知っていた。 後ろの女の手が、しっかりと掴まってきていることを確認したアロワードは、無言で窓から飛び降りた。 |